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蕎麦粉が生き物であることを、パンが教えてくれた。




「てんちゃんパン」 を焼く特訓中だが、
やはり頻繁に12、3年前の
蕎麦打ち特訓のことを想い出す。

包丁もろくに持ったことがなかった私だが、
幼少から模型をつくったりするのは好きだったので、
手順や要点を守ればプラモデルが組みあがっていくのと、
似通った喜びが蕎麦打ちにもあるからして、
そういう部分はすぐに馴染めたし、楽しめた。

     ◇

ただ。白状すると、
後から思うに、
「食べ物を扱っている」 という感覚が欠落していたところがあって、
うまく打てなかったらブチ投げてしまいたい衝動に駆られたものだ。

衛生面や品質管理なんかは妙に神経質なのに、
蕎麦という 「食べ物」 を単なる 「物」 扱いしていた節があった。

恥かしいかぎりである。

     ◇

さて、パンである。

いきなり見舞われた幸運によって、
びっくりしたように焼き始めたのだが、
蕎麦打ち同様まったくの初チャレンジ。

どうなることかと随分気をもんだが、、
いまのところ思いの外順調だ。
蕎麦打ちとの感覚的な共通点も多いし、
粉をこねるのは苦にならない。

     ◇

蕎麦打ちとの一番の相違点は、やはり 「醗酵」。

ここはちと辛い。

準備から麺としての完成に至るまで、
一気に打ち上がるとに慣れ親しんでいるので、
作業を一旦止めて 「待つ」 というのがじれったくて仕方がない。

ただ待つのでなく、生地が 「ふくらむ」 のを待つのである。
しかも。ふくらむかどうかわからないものを待つのであるし、
さらには、じ~~っと見つめていても、
ふくらんでいるかどうかわからないのである。

貧血でもないのに時々めまいがする。

    ◇

蕎麦は打ちあがるまで、常に接しているし、
自身の手の動きで刻々と事態が変化していく。

うまり、その変化の軌道の多くを、
自身の手の動きがコントロールしているわけで、
スピードも求められる都合上、
失敗するというのは単に手がへまなだけである。

しかし。パン生地がふくらむふくらまないというのは、
「待つ」 という工程がそのあたりをうやむやにしてしまう。

なにか外的な要因がそれを阻害しているのではないか?
などと、考える時間があるために、
目に見えない物に責任転嫁してしまいやすく、

あげく。

「ふくらめ!」

と、持ち合わせてもないフォースに頼ろうとしたりと大騒ぎだ。
ま、へまなのには違いないのにね。

     ◇

ともあれ。幸い、おおむねふくらんでくれている。

なぜふくらむか? という記述の幾つかを読んだが、
それらは決まって難解であり、ここで要約するのはよそう。

理屈より、ここで重要なの次の声が出るかどうかである。

「お」

これは。しばらく生地から目を放しておいて、戻ってきたときに、
目の前の生地がふくらんだことに対する、
焼き手の驚きや歓喜の声だが、

「このふくらみサインこそが
パンの出来を左右するといっても過言ではない」

というのが今の時点で、唯一理解できることだ。

     ◇

それにしても。
「ふくらむ」 のを 「待つ」 という行為をはじめて、
まだそれほど時間が経っていないが、
その様を眺めていたら思わぬ発見があった。

それは。今さらながらであるが、
 「食べ物」 のなかに 「生」 を リアルに感じるのである。

おのずと、蕎麦打ちに対する気持ちに変化が生じつつある。

蕎麦粉をこねて延し、麺にする過程では、
パンがふくらむといった脈動を目視しづらいが、
それでも、何やら只ならぬものを、
指先に感じるようになった気がする。

生きていたんだな蕎麦も。

というか、食べ物とは生きているんだな。

     ◇

今日でこの地に越してきて15年がたった。

15年前の私に、「お前はじきに蕎麦を打つようになる」
と誰かが言ったとしたら、私はそいつにこう返事しただろう。

「はあ? そんなはずないだろ」

     ◇

だが、そんなはずになった。

そして、蕎麦は私の中で、

「もの」 から、「食べ物」 、そして 「生き物」 に変化していった。

この感触をぐっと細胞に刻み、明日も蕎麦を打とう。

そして、パンを焼こう。



先生。

ありがとうございます。



















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